わたしを外側から見る 視座をあげる

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今まで何度も頭から出ていってくれと願った思念がいくつもある。

苦しいこと、悲しいこと、どうしても忘れられない人のこと、とか。

あとはいつも頭の中にある、自分の年齢のこととか。

子どもを産めるかどうかの瀬戸際の年齢だから、しょうがないとは思う。 

これ以上苦しみたくない。

この気持ちをどうか、わたしからなくしてください。

そう思い続けていた。

そんな風にして、その叶わない願いを抱き続けてきた。

わたしは、変な子供だった。子供の時からお母さんになるのが夢だった。

どうやったらなれるのかを知りもしない頃から、そう思っていた記憶はある。

そんなに長い事思い続けてきたので、今それが執着になっているのもおかしな話ではないと最近納得してきている。

散歩を日課にするようになって、心が安らかになる瞬間を感じることが増えた。

そんな時に、わたしの叶いそうにもないこの執念を、執念として持ち続けることに納得する心持ちになったんだ。

良いも悪いもない。

わたしはそういう人間だったんだ。

叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。

こののちに、叶わなかったと振り返ることがあれば、きっと泣くだろうけど、わたしの人生はそういう風にならなかったってだけのことだ。

だけどきっと、さらにそののちも人生は続いていく。

こんな風に、どんどん自分の人生を遠巻きから眺めている感覚になっていく。

抽象度が上がったのかもしれない。

わたしという人間を深掘りしていけば、毛穴の中にまで住まうネガティブを発見できるだろう。

だけど、どんどんと抽象度を上げていけば、年齢や女性だというアイデンティティも通り越して、ただの1人の人間、生物、有機物、、

どこまでだって視座を上げることはできる。

燃えたらみんな炭になるだけだ。

有機物なんだから。

宇宙の中のただの一欠片の塵だということさえ正解だ。

ここにある、たった一つの願いが叶わなかったとて、どんな支障があろうか。

まぁこう考えられるのは、気分のいい時だけなんだけど。

明日は今日より、半保だけ前に進もう!

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