わたしの体のどこを切り取っても、それはわたしであることに他ならない。
当たり前のことなんだけど、この前、妙にこのことを考えさせられる出来事があった。
先日、2回目のバイトに行ってきた。
入浴介助の半日のバイトで、前回と同じ利用者さんだった。
その中の男性の一人で、首下がり症の方がいた。
首下がり症とは、首の骨が前に曲がってしまう病気で高齢の方に多い。
下を向いた位置で固定されてしまうので、正面を向くことができない。
だから、前回も今回もわたしと対面したことはない。
とても紳士的な話し方をされる男性で、
「あなたは先週も来ていた人だね。ありがとう。顔は見えないけど、足の指の形で分かったよ」と言われた。
なんとなく、心に残った言葉だった。
正面を向くことができれば、顔や全体の容姿で相手を認識するんだろうけど、
足の指の形でわたしだと特定されるとは。
(他にも声などで雰囲気は伝わっているんだろうけどね)
足の爪のケアも細かにしているけど、手に比べるとやっぱり回数はその比ではない。
だけど、他のだれかからすると、この足がわたしの顔ともいうべきところなんだ。
わたしの足よ。
立派に役目を果たしてくれてありがとう。
明日は今日より、半歩だけ前に進もう!
コメント
ichikoさんこんばんは
入浴介助お疲れ様でした!
確かに身体の一部で自分だと相手に認識される事って、ちょっと心に残る言葉ですよね❣️このお話を読んでハッとしました。
その人の身体のどこか一部でも私自身も
『あっ!○○さんだ』
と顔を見なくても認識する事があったな
と、
文字でもそういう事ってありますもんね☺️
そう思うと自分の全てが役割を立派に果たしていて、全部ひっくるめて愛おしい存在なのだなぁ、なんて思ってしまいました
bananaさん、こんばんは
いつもコメントをありがとうございます❣️
とても嬉しいです。
励みになっています。
文字は、本当に代表的な例ですよね。
誰が書いたかすぐわかりますもんね笑
昔流行ったB’zのイチブトゼンブって歌じゃないけど、切っても切り離せないってことなんだなぁ
なんて思ってました